水筒

竹水筒の様に、考えたことや学んだことを書いていきます

自分のここ10年間を振り返って

誰にでも人生の中で言えない位辛かった時期があるだろう。私にとってはそれが18-19の時だった。今から丁度10年前の頃だ。

 

当時の私は、強迫障的かつ原理的で、私は誤った道を選んでしまった。この記事を読んだ人が、私の愚かさと、外見に囚われることの惨めさ、そしてそれを転化することの意味を感じて頂ければと書いた。というのは綺麗事で、これは私自身が私の過去に対して結局の所openにしておかなければ自分の脳が壊れてしまうから書いているだけである。

 

最も、この様な在り来たりのお話しを掲載した所で、自分のidentityがバレるデメリットしかない様にも思える。私はsoftware engineerで、職種としては、少なくとも日本では、引く手数多なのだが、私がどこかの企業に面接を受けに行き、面接官がこの記事を採用判断にしたら、codeを書くのが仕事の職種でも、9割の企業の面接に落ちるだろう。私は私自身の為、また、誰かに受け入れられ為に書いてはいるが、殆どの人は受け入れないことは自覚している。

 

端的に、私は、高校を卒業をして大学受験の浪人時代、予備校に通っていた時に私の顔に対して、美容整形をした。具体的には、二重埋没手術と目頭切開手術を行った。約20万円の手術だった。今までの人生で最も辛い時期だった。

 

私は決していわゆるイケメンになりたかった訳では無かった。私は当時も今もTVを全く見ないし、憧れというものはなかった。私は高校に進学した時から、自分の 「キャラ」が「かわいい」と固定され、私の性格がそれによって形成される仕組みに対して違和感を感じていた。この程度の違和感は多かれ少なかれ、誰でも持っているものではあり、通常の人は整形など大胆なことはしない。私の場合、整形に踏み切ったのは、その頃、幼い頃から家庭の影響で信じていたキリスト教に対しての疑問感と重なり、世間的な善悪と自分の善悪がズレていったからである。

 

 当時の私は日曜日に教会に行かないという選択肢を取ることで、キリスト教徒でなくなるということを恐れていたが、一方でその教えにも懐疑的だった。私は、心の中で、教えを疑ってしまう自分が原罪を持っており、一日一日の行動が、毎日、罪を作っているかを確認していた。園子温の「愛のむき出し」(因みに私は今は価値観が変わったので、この映画が全く好きでない)を見た時に同じ様に考えている人がいてびっくりしたが、あれを内省的に行っていた。盗撮はしていないが。

 

当時の私が予備校のテストを受けた時、時間制限が厳しくなるほど、その焦りからか、今この問題を解くのが正しいことなのか、という謎の問いが強迫的に迫ってきた。数学の時に特にそれが強く、方程式を変形しようとすると、よく、別の雑念が入ってきて、計算ミスをしたり、思考が止まったりした。なお、これは私が大学院でHaskellを学ぶ動機にもなった(コンピュータによる数式の自動推論を勉強したかった)。

 

端的にいって、私は、当時、一種の強迫性障害であった。回答の出ないことを嫌でも考え続けるのは本当に辛かった。

 

当時の私は、母以外に、表面的に、この事を打ち明けずにいた。母はChristianで私を助けてくれたが、私は母とは考え方が違いadviseはあまり役に立たなかった。

私には気の許せる友達も数名いて、極端に孤立したり、いじめられてなどいなかった。ただ、一般的に、見た目から来る私の和やかな印象が、私の他人に対しての性格を固定していることが許せなかった。私は、せめて、表面を普通にすることで、内面と他人に対して見せる自分の溝を埋めなければならならないと思った。私は当時これを社会(他人)に対する妥協だと思っていた。 今から振り返ると、これは大変イかれた発想だったと自覚している。

 

私はある日、ネットで美容整形外科に申し込み、目の上や横をメスで切ってもらった。

奥二重にした二重まぶたは結果的に印象にはあまり意味が無かったが、目頭切開によって、私の印象は少し変わった。人によっては、眼つきが悪くなったというだけかもしれない。目を抉ったことによって、ともかく、大学以降、私は以前の様にあまり「かわいい」とは言われなくなった。それと引き換えに、大きな傷跡が目の周りに残った。その傷は初めは赤く、やがて白い瘢痕となり、それは一生消えないものだと分かった。私は、見た目によって判断されないことと引き換えに、傷跡によって他人にこのことが周知される恐怖に駆られ始めた。

 

半年間ほど、私はその傷が徐々に癒えるのを待ち、もうこれ以上決して癒えない事が分かった時、私はその恐怖を昇華させる為に自分の脳を変えるしかないと分かった。

 

私は、浅はかに知っている事から考え、マズローの人間の根源的な欲求の内、他者からの承認の欲求の欠如が恐怖であると判断し、その欲求が自己実現欲求に昇華すれば良いと考えた。と同時に、他人からの恐怖が自分自身の問題であるかの様に考えず、一般的に社会(他人)と共有されていると捉え始めた。私はこの時期に本を沢山読んだ。私は大学時代、サイゼリヤに毎日通い、本とノートを用いて思考することで、私は傷を忘れ、頭の中に合った「神」の概念を別のものに埋めあわせることができる様になった。私は、自分自身を拘束していた強迫症を自分の思考によって徐々に解消する事ができた事で少しずつ自分自身を取り戻した。

 

自己実現欲求を満たす為に、大学二年生から自分の問題を他人も同じ様に感じうるという点に興味をもち、社会問題等の公共政策を議論させる場を提供する学生団体に入った。所謂「意識高い」系の様なものだが、メンバーには頭の良い人が多かった。私は、ここで、他人嫌われても合理的に意見を言う勇気を得た。

 

その様なことを学ぶと、文系の就職活動では逆に失敗する。私は、性格フィルタとして面接試験に落ち続けた。

 

大学卒業後、私には行き場が無かった。私は、1年休学し、卒業までの半年間、地方でリゾートバイトを半年程続け、お金を貯め、漠然と、海外の大学院に行き、学ぶことを目標とした。実際の所、国はどこでもよかった。ただ、私は、大学時代にドイツ哲学や社会学に関心があったので、卒業後1ヶ月程立ち、そちらに向かった。渡航後、農業での無給就労を行いながら、私は現地のいくつかの大学院に出願した。そして、10月以降、その内の一つで勉強を始めた。私は25歳になっていた。

 

私の関心はその頃、社会問題から自分の脳がどう機能しているかに移っていた。勉強する内容は認知科学だったので、その内容は私の興味に適合していた。コースを受講する中で、私は、神経科学よりも、コンピュータビジョンの分野に深く嵌っていった。自分の視覚をどの様に再現するかということを考える上で、そちらの方が根源的である様に思えた。私は当時、視覚から受ける情報自体に依存してしまう自分を変えたく、そのメカニズムを勉強することは大変興味深かった。

 

同時に、私は、コンピュータそのものに関心を持ち始め、少ない授業を受け、多くのprogrammingを書いた。software engineeringに携わったことは私を180度変えた。私は、自分が作ったものが自分自身と分離する事ができる事を本当に嬉しく思い、自分に対する執着を解消する事ができる様になった。すでに存在しているものではなく、生み出されるものに価値を置く様になった。自分自身への問い掛けから解放される様になった。同時に、概念的なものから具体的、細やかなものを好む様になり、日本的な価値観に関して愛おしく思う感性を持った。以前好みだった映画、本は、全く面白くなくなり、自分自身の調和を促す音楽が私を安定させるものとなった。私は性格としてもより「自然」に近付くことができた。私は25歳になって初めて、自分の人生の目的を定めることができた。

 

ドイツにいったことは、社会的な視座を獲得する為にもよかった。私はドイツ語があまり話せなかったので詳しくは知らないが、ドイツで2年間暮らし、人を外見で「キャラ」つけしたり、ランク付けするという発想自体がこの国には(少なくとも私の周りには)殆ど無い様に感じた。私が、高校時代に、抱えていた思い込みはドイツの滞在中でほぼ消滅した。

 

2年後、修士課程を終え、私は帰国した。私は、ドイツが嫌いではなく、寧ろ好きだったが、時々空港にいる夢をみて、逃げる人生は送るべきでないと感じた。また、家族に自分が生きている事を示すべきだと思ったし、母が私がドイツに渡った冬、鬱病になったのは心配ではあった(母はこれを自分のせいだと言うが、周囲は敬虔な母の信仰心が揺らいだことによるものと思っている)。何より両親に大学院時代の生活費をとりあえず返す必要があった。

 

私は、AI系の小さなベンチャーに入った。そこで私は学生時代にも増して、更に深くprogrammingを学ぶ事ができた。ここでの私は幸福であった。私は自分自身が、エンジニア中心視点で、傲慢かつ非社交的である事を自覚していたが、そこには、エンジニアになる前の社会問題などを考えていた自分を否定するという意味もあった。共感、思いやり、当事者意識、20台前半の私はかつてそう言ったことが自分を「よく」すると思っていたが、そういったことは当てにならないと思った。私は、自分の脳内で、エンジニアになる前以前の記憶を上塗りしたかった。

 

そこで働き始め、一年が立ち、私は、自分自身が、会社として、大きな目標に向かいつつも、自分が小さなことに未だに怯えていることに気付いた。結局、私の目の横にある傷は以前傷として存在し、他人からの恐怖を与える口となっていたのであった。プログラムを書くということは繊細であることを求めるが、自分の場合、精神を強くする事には機能しない様だ。

 

私はその時、私自身が、18-19の時に経験した弱さに戻っていることに対して絶望した。私はすぐにまた不安になった。私は18の時に、傷跡が残る整形手術をしたことで、社会的には、殺人を犯した様に前科が付いてしまったのだ。

 

高校のアルバムを取り出して眺めてみるとそこには簡単に戻ることのできない当時の自分がいる(写真1)。私は、今、当時の自分の顔を傷付けたことを本当に悲しく思っている。私は今から思えば、本当に不必要なことをして、不必要な傷を追い、それを何かに転じて生きてきたのだ。その傷は物質として決して癒えることなく、死ぬまで私を形容し続ける。私は死ぬまでそれを転化し続けるのか。その気力はない。コンピュータ関連に私の関心が移ってから、私の心は以前に比べてずっと自然体に戻っている。だからこの白い傷はただの物質的なものでしかない。エンジニアとしてレベルを上げる動機付けにはなっても、その時の記憶を転化していくことはできない。

 

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左の写真は整形前の高校三年生の卒業アルバム制作の折に撮影したものだ。

この写真はよく撮れている方だが、今見ると、幼い印象はあるものの

整形をする程の顔だったのか思う(ただ私は眉間が離れていて、男っぽく見える様に毎日書いていた。これは当時水泳部の自分にとって本当に苦痛だった)。因みに、私は高校の部活のOBとして指導して下さった女性の先輩からとても可愛がられていた。(それが当時は嫌だった)

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右は現在のもの。髭が生えたこともあるが全体的に印象が変わっているだろう。昔の友人からも会うと、「なんか印象変わった」という感想が多い。Wildに見えるが心は小さいまま笑。

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当時のドグマが作った小さなcomplexを解消したことによる莫大な不安。openではなくcloseに生きていく人生。

二重まぶたの方は、左目の糸が外れ、日によって一重、奥二重、平行の二重になる様になった。時々umbalanceな顔になる。

 

私は自然体であることを放棄することによって、傷を負い、他の人があまり興味を寄せない、哲学、政治、認知科学など様々に関心を向けた。それら学んだ事の多くは否定的に自分の脳内で上塗りされる形で、今のエンジニアリングへの関心へも繋がっている。しかし、私は、以前として、目の前の人に嫌われる事を怯えている。

 

だから今ここで書いている。この恐怖の連鎖を断ち切り、私がopenであれる様に。例えば相手が私に「この傷跡整形?」と聞いた時に、「はい」と答えて、下手な言い訳をする代わりに、このブログを見てもらう様に。9割の人は見ないだろうし、見た9割の人も共感できないと思う。それでも私は目の前の人に実際に嫌われることより、嫌われるのではないかと恐怖し続ける人生を恐れる。結局の所、凡ゆる人から気持ち悪がられても私は死ぬ必要はないし、淡々と自分のやるべき事をやり続ければ良いのだ。私は、例え家族や子供を持たなくても、プログラムが書ける今、この世で何らかの役割があるという自信をもつ必要がある。

 

ここまで読んで、殆どの人は私の人生に対して(少なくとも25歳まで)「何て愚かだろう」と感じるだろう。私もそう感じる。私は、誰にも傷付けられていないのに、自分で自分を傷付け始めたのだ。例えば、「何か一つでも本気で打ち込めるものが昔からあれば」、「programmingと出会うのが10年前だったら」、「本心まで相談できる人が周囲にいれば」と考えると、10年前にあった苦しみ、痛みは全く必要無かったことになったかもしれないとよく振り返る。私はドイツに渡り、エンジニアになった3年間で以前の7年間の私を根本的に否定した。

 

今後、私が自然体として生きていく為に、私自身が幾たびも振り返った自分の過去に対して他人に対してもopenでなければならない。それによって職を失ったり、多くの人に気持ち悪がられたとしても、私はこの闇を単なる一つの軽い物語として語れる様にならなければならない。私は「整形失敗者」のレッテルを軽々しく名乗り、他人に拒否されなければならない。

 

L社の皆様、

私は自分の過去をこういった形で他人に打ち明けた事はなく、どういった印象を抱かれるか分からないのですが、まあこういう人だったんだなと素直に受け取ってあげて下さい。一般にエンジニアの方はこの手の話しに共感しないし興味もないことは自分も一応エンジニアなので、よく知っています。(興味を持たなかったことは健康であるということです)。公開した理由として、特定の関わりがあった人々に見てもらう事で、私自身が一歩前に進める気がしたからです。流石にFBに突然流すのは躊躇ったので。

 

最後まで読んで頂きありがとうございます。この記事は非常にnegativeですが、以降の記事はpositiveな技術的なことを書きたいと思います。私はエンジニアになって以降、positiveであることが正しいと思っているので、この記事自体が私にとっても不快です。

 

Trial

Hi